益城町総合トップへ

四賢婦人記念館<津森地区・上陳>

最終更新日:
 益城町上陳に所在する「四賢婦人記念館」は、江戸時代後期に益城町杉堂に建てられた、惣庄屋矢嶋忠左衛門直明の旧家屋を移築したものです。館内には、矢嶋家や徳富蘇峰に関する古文書や生活用品を展示しています。また、記念館の敷地内には矢嶋家姉妹の功績を称えた「四賢婦人誕生地之碑」があります。
 矢嶋家は、「熊本の猛婦」・「四賢婦人」と称され、近代日本における女子教育や婦人解放運動に尽力し、今日の男女共同参画社会の礎を築いた竹崎順子・徳富久子・横井つせ子・矢嶋楫子を輩出しています。矢嶋家は、幕末の思想家で明治新政府の参与となった横井小楠との関係が深く、長男直方(源助)をはじめ、矢嶋家姉妹の配偶者らも門下生として小楠に師事しました。
 また、雑誌『国民之友』、『国民新聞』を主宰した近代日本を代表する言論人徳富蘇峰も、文久3(1863)年に徳富一敬・久子夫妻の長男として、母方の実家であるこの家で生まれています。生前の蘇峰はこの家を訪れ、昭和27(1952)年には『生誕之記』を執筆し、潮井神社(杉堂)に記念植樹をしています。

四賢婦人記念館
〔 所在地 〕 上益城郡益城町大字上陳436 
〔 時間/定休日 〕 <開館時間>平日:午前9時30分~午後4時
<休 館 日>月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)及び年末年始 
〔 利用料金 〕 無 料 
〔 駐車場 〕 有(8台)
大型車専用駐車場(1台) 
〔 交通アクセス 〕 熊本空港から 車で約5分
益城熊本空港ICから 車で15分
 

四賢婦人関連史跡マップ


矢嶋家・徳富家系図


嶋家年表

 

竹崎 順子(三女)

竹崎 順子(三女)
 文政8(1825)年10月25日、矢嶋家三女として益城町杉堂に生まれる。横井小楠の高弟である竹崎律次郎(茶堂)に嫁ぐ。律次郎の事業失敗や横島新地(現 玉名市)の事業、肥後藩庁書記官への出仕、家塾「日新堂」の創設を献身的に支えた。 律次郎死去後、キリスト教に入信し受洗。女子教育の必要性を提唱し学校設立案の「趣意書」を起草する。明治22(1889)年「熊本女学校」を創設。多くの人材を世に送り出した。明治38(1905)年、81歳の終焉まで校長としてその責務を全うし、現在も校母として尊敬されている。
 <写真:開新高等学校所蔵>。
  

徳富 久子(四女)

徳富 久子(四女)
 文政12(1829)年4月11日、矢嶋家四女として益城町宮園に生まれる。横井小楠の高弟で明治3(1870)年の肥後藩政改革の中心人物、徳富一敬(淇水)に嫁ぐ。 近代日本の言論人徳富蘇峰、小説家徳冨蘆花兄弟の母として厳格な家庭教育を実践。蘇峰は「私が一人前になり、強い信念が持てたのも、母の厳しさのおかげであった。」と感謝している。女子教育のための学校設立案を提唱し、姉順子女子教育、妹楫子の日本基督教婦人矯風会活動を積極的に支えた。大正8(1919)年91歳没。
 <写真:熊本市所蔵>
 
 

横井つせ子(五女)

横井つせ子(五女)
 天保2(1831)年8月17日、矢嶋家五女として益城町宮園に生まれる。安政3(1856)年26歳の時、思想家・政治家の横井小楠に嫁ぎ、明治維新への大業参加を支えた。「夫は天下人である。妻たる自分もできるだけ学問をして夫の名を辱めることがない様に」と励む。それに対し小楠は、「おつせは君子だ」と賛美の声を贈ったという。長男時雄は同志社大学第3代総長となる。時雄の妻は山本覚馬の次女峰子。長女みや子は同志社女学校設立に貢献し、同志社大学第8代総長海老名弾正の妻となる。またつせ子は、姉順子、妹楫子の女子教育・婦人解放運動を支えた。明治27(1894)年64歳没。
 <写真:横井和子氏所蔵・熊本大学附属図書館寄託>
 

矢嶋 楫子(六女)

矢嶋 楫子(六女)
 天保4(1833)年4月24日、矢嶋家六女として益城町宮園に生まれる。安政5(1858)年、兄直方の勧めにより結婚するも明治元(1868)年離婚、矢嶋家に復籍する。明治5(1872)年、兄の看病のため上京。その途上「楫子」と改名する。兄のもとに住み小学校教員伝習所に学ぶ。苦学の末小学校・女学校の教師となる。明治12(1879)年、米国婦人宣教師ミセス・ツルーの影響によりキリスト教に入信し受洗。明治19(1886)年、「日本基督教婦人矯風会」を設立し、初代会頭に就任。元老院への「一夫一婦制」の建白書提出をはじめとし、婦人参政権・廃娼・禁酒運動等に尽力した。また明治22(1889)年、キリスト教系女学院(現 東京・女子学院)を創立。初代校長となる。大正10(1921)年、89歳の高齢でワシントン平和会議に出席し、その功績を讃えられハーディング米大統領より記念の花器を贈られる。大正14(1925)年93歳没。従五位勲五等に叙される。
 <写真:女子学院所蔵>

 

横井 小楠

横井 小楠
 熊本藩士で儒学者・政治思想家。文化6(1809)年8月13日、肥後熊本藩士の次男として生まれる。天保8(1837)年、29歳で藩校「時習館」の居寮長となる。天保14(1843)年頃、「実学」を提唱し私塾「小楠堂」を開く。安政2(1855)年沼山津に転居し、私塾「四時軒」を開く。「四時軒」には坂本龍馬も度々訪れている。安政5(1858)年には、福井藩主松平慶永(春嶽)に政治顧問として招かれ、『国是三論』を著した。文久2(1862)松平慶永の幕府政治総裁職就任を期に幕府改革に関与、公武合体運動を推進するが士道忘却事件で失脚。士籍を剥奪されて熊本に蟄居したが、勝海舟・坂本龍馬など諸国の志士との交流を続けた。維新後は明治新政府の参与となるが、京都にて守旧派に暗殺された。明治2(1869)年61歳没。
<写真:横井和子氏所蔵・熊本大学附属図書館寄託>
  

矢嶋 直方(長男)

矢嶋 直方(長男)
 文政5(1822)年、矢嶋家長男として益城町杉堂に生まれる。青年期より高弟として横井小楠に師事する。惣庄屋である父直明を支え、湯浦手永・中山手永在任期の補佐役を務める。中山手永では用水の開削に尽力し、その功績は「矢嶋祭」として現在も続けられている。明治維新後は土木大丞・左院議官・堺県(現 大阪府)参議官・福岡県参議官を歴任。退官後は故郷杉堂に学校を建設し、教育・産業・文化事業に尽力した。明治18(1885)年、64歳没。


徳富 蘇峰

徳富 蘇峰
 明治・大正・昭和にかけて活躍した言論人・ジャーナリスト・評論家・歴史家。文久3(1863)年、肥後藩水俣の郷士で横井小楠の高弟、徳富一敬(淇水)の長男として母久子の実家(現 益城町杉堂)に生まれる。熊本洋学校に学び、。「熊本バンド」の一人として同志社英学校に学ぶが退学。熊本に戻り「大江義塾」を設立する。明治19(1886)年、23歳で著した『将来之日本』が好評を得て上京、「民友社」を創設する。『国民之友』、『国民新聞』を発刊して平民主義を提唱する。その後国権主義へと転換し、明治30(1907)年松方正義内閣の内務省勅任参事官に就任、桂太郎内閣にも深く関与した。昭和4(1929)年、国民新聞社を退き大阪毎日新聞の社賓となる。昭和17(1942)年、日本文学報国会・大日本言論報国会会長、昭和18(1943)年、文化勲章受賞。昭和27(1952)年『近世日本国民史』全100巻を完成させた。昭和32(1957)年94歳没。
<写真:水俣市教育委員会所蔵>
 

徳冨 蘆花

徳冨 蘆花
 明治期日本文学の小説家。明治元(1868)年、肥後藩水俣の郷士で横井小楠の高弟、徳富一敬(淇水)と母久子の三男として水俣市で生まれる。キリスト教の影響を受け、ロシア文学の小説家トルストイに傾倒していく。明治22(1889)年、兄蘇峰が主宰する「民友社」に入社、『国民新聞』に連載した小説『不如帰』がベストセラーとなり、それに続く『思出の記』、『自然と人生』などの作品も好評を得て人気作家としての地位を確立した。大正12(1923)年、伝記『竹崎順子』を著す。後に夫人とともにエルサレム巡礼の旅をおこない、トルストイとの面会を果たしている。兄蘇峰との確執が続き、「告別の辞」により絶縁状態となるも昭和2(1927)年、病床にて和解しその翌日に58歳で没する。
<写真:水俣市教育委員会所蔵>
 

 

このページに関する
お問い合わせは
(ID:102)
益城町

〒861-2295  熊本県上益城郡益城町大字木山594  
Tel:096-286-3111   Fax:096-286-4523  

[開庁時間] 月曜~金曜日の午前8時30分~午後5時15分まで(祝日、年末年始を除く)

益城町マップ
Copyrights(c)2018 Town Mashiki All Rights Reserved